東側  西側


アーケード建設時、仮設住宅を道路の真ん中に作って住んでいました

写真をクリックすると拡大します


アーケード名店街の歴史

沼津は江戸時代に水野忠友が沼津城に入城し、町は5万石の城下町となる。

商いは一層活発になり、町中には多くの人馬が行き来し、河岸には各地からの物資が揚げられた。幕末期までには、現在の市街地の骨格がほぼ完成されている。

沼津城が棄却され、市街地一帯が再び町人町となった。

鉄道が敷設され、現在の上土通りが停車場へ向かって旧城内を貫いている。

橋架が解禁となり、湊橋によって狩野川対岸の市場町が市街地と接続された。

大火により灰塵に帰した後、区画整理によって町方町を貫通する本通りが整備される。以来、江戸時代から明治末期まで栄えてきた本町に代わって沼津で一番の繁華街となった。再び灰塵に帰した後、大規模な区画整理が行われた。

市街地は拡大し、商業地が駅の北側に進延したほか、我入道方面でも整備が行われた勘定所は群政役所となり、引き続き町方に関係する事務をつかさどっていたことも町名由来のひとつといわれる。大門町と通横町を抜けた先に湊橋が架けられたことにより交通が一層盛んになる。

町方町は城内に位置しており勘定所が置かれ、隣接して通横町には問屋場が設置され、大門町は正美寺の門前町である。多くの人馬や物資で賑わったこの界隈は、藩の直轄地と町人地の境にあって、両者が相見える特殊な一画となっている。

大規模な復興作業により、戦災まで沼津のメインストリートとして活況を呈する。

本通りには2軒のデパートをはじめ瀟酒なレストランなど最先端の商業が建ち並んでいた。

戦災復興が進められる中、当時全国に展開された都市不燃化運動の先駆けとして、沼津本通防火建築帯が華々しく誕生した。空襲で再び灰塵に帰した後の戦災復興が進められる中、昭和281220日「全国アーケード建築に一大エポックを画する初めての試み」と報ぜられ、沼津本通防火建築帯(現沼津アーケード名店街)が完成した。

有階アーケードとされる特殊な形態の建築が実現したのは、戦災復興区画整理による幅員20m の都市計画道路の整備が難航する中、既存百貨店が道路幅員はそのままに建物の1階部分を削って歩道としたことに、周囲の住民が同調したことによる。

建設省(国土交通省)では都市計画道路の縮小変更という異例の決定を下し、歩道上を専有するする建築を許可する代わりに、美観地区の設定などを求めた。

これに応え、住民は共同住宅建築組合を結成して建築協定を締結する。当時既に建築協定の前例はあったが、建築の構造などにまで触れる協定の事例は無い中で


      1)各階の高さ 2)全面の柱の間隔など、9 項目が協定された。


沼津市も美観地区の指定と公共歩廊用通路の指定などで協力し、美観地区条例では本通の美観を維持するため美観地区内における建築物の敷地、構造又は建築設備に関し、美観の保護のため必要な制限を附加するとして


     1)共同建築の間口の最低限度 2)階数の最低限度など、7 項目の制限を設けた。


 建築設計には建築家池辺陽と研究室の面々が、モダニズムの合理性の下、店舗と住宅の混在を近代的方法で解決すべく取り組んだ。建設当時にあって電話線の地中化やガラスサッシュのファサード、照明や屑箱に至るまで統一されたデザインがいかにセンセーショナルなものであったかは創造に難くない。同年沼津を訪れた都市計画家石川栄耀も観光施策の重要性と商店街の整備を提言するなど、共同建築は、学民官三者恊働の成果であった。

アーケード名店街は昭和29年に建設され昭和30年から今日まで商都沼津の発祥地として毎月1日に「ついたち市」を開催し現在にいたっている。

最近ではこの「ついたち市」に併せて「朝イチ」を開催し、周辺の農産物や海産物をはじめとする地場産品の生産者が参加するマーケットイベントは中心市街地にあって多くの来客を集め賑わいを呼んでいる。

平成19年から老朽化に伴い、地権者・商業者・住民が一丸となって新しいまちづくり向けて活動が推進されている。


   
HOME 店舗紹介 アクセス 駐車場案内 リンク イベント 沼津アーケード名店街